「必然性」
〜4、条件。
それは、そこで生きる本人にとってみれば、預かり知らぬ偶然の連続であるし、しかし、それを外からながめる客観的な第三者から見ると、必然としか言いようのないものなのである。では、いったい何が本人をしてつき動かし、導き、そうした行動へと駆り立てたのだろうか? それは、本人にとって意識されることのない、そして本人をして、絶対的に支配し包(つつ)んで一体化している情緒とか、心の動きといったものである。それは特殊化し制約され方向づけられた民族の情緒的特性、感じ方や肉体の生理的な感受性とでもいったものである。 それは、持って生まれた肉体の感覚と生理のリズムであり、そしてそれが統合されアンサンブルとなって表出されたものである。それは、だれにも止められないのである。それは、本人にしてみれば、それしかなく、また、それだけが本来の自分と言えるものなのである。 それは、地理とか気候、そして歴史と文化に深く根ざしていて、それらと一体となった感覚の特性、心のうつろいや、その鼓動のリズムである。自己というのがそれらの外の自然と一体化しているのである。 それが情緒であり、そしてまた、心の動きというものが、あらかじめ定められていて、その枠(わく)の型式(かたしき)の中で揺れ動いて行くのである。こうした心の動き、情緒といったものを支配し決定しているのが、まさに、風土なのである。つまり、地理的・歴史的条件なのである。 人間は目に見えないレールの上を、それと気づかないまま歩いているようなものである。それが人間にとって最も安全で安易で確実な道なのである。そうした目に見えない無意識のシキタリや習慣、あるいはまた、そうした自分たちの伝承や言い伝えの世界を生きている。それが自分たちの「信じるもの」の世界であり、存在の理由となっているのである。 |