「自律」

〜3、感覚。


人間というのは曖昧で、ワケのわからない部分を持っていて、不確実で入り乱れて、とらえどころのない世界を内に含んでいる。

例えば、「見る」とは、見ている、見えている、見えないでいる、見てはならない、見なければならない、見えていなければならない、見ようとしている、あるいは見るのを避けている・・・等々と、様々な場面がある。と同時に、同じ場面であっても様々に意味合いが違ってくるのである。

また、同じものを見ていても、見る目的によって様々に違って見えてくる。場合によっては無いものが見えてたり、白が黒く見えたりもするし、また、その見方(みかた)や感じ方そのものが処罰の対象になったりもする。それどころか、そうしたことの個人的な感情の持ち方自体が粛清(=処刑)や排除の対象になったりもしている。しかし、これこそが「文明」なのであって、文明の成り立ちそのものなのである。

私たち人間はそうやって社会の枠(わく)を定め、人間同士のつながりや秩序、そして文明のシステムを築き上げてきたのである。そうしたことがオキテや習慣、感情というものであって、それ自体がすでに人間の感覚や感受性の方向や範囲、その指向するところを定め、制約し、規制し続けているのである。

そうやって人間は生きて来たし、生き続けることができたのであり、そして、それをもってこれからも生きようとしているのである。

もどる。             つづく。