「自律」
〜2、疑惑。
見る・聞く・触れるといった感覚の感じ方、感じ方そのもの、感受性、センスといったもの。もっといえば、そうした感じ方の記憶とか考え方といったものも含めて、それがきわめて曖昧(あいまい)なのである。 それどころか、「これはいったい誰の感覚なのだ?」と、自分自身の感覚を疑うことだってあるのである。自分自身の感覚だといっても疑惑に満ちみちているのである。 だからまた、曖昧でそれが何かわけが分からず、確めることもできずに悩んでしまうのである。これはいったい何なのだと、自分自身に対する底無しの猜疑心に悶絶するのである。 しかしまた、むしろそうした、疑う感覚がなければ社会が固定化していって、思考が停止して、なんの脈絡も筋道もなく、発展も後退もない、なんやら訳のわからないものになってしまう。 なにもかもが、シキタリと常識に縛(しば)られたカースト社会のようになって、人間的な感情や感覚が省(かえり)みられない社会になってしまう。なにもかもが管理された工場の中のように、無機質で死んだ社会になってしまう。 |