「見える世界」

〜5、観念的映像。


思い込みと偏見、そして生活習慣やライフスタイルが、私たち人間の「見ること」の背景にあって、さらに、自分自身の利害関係や損得、そして動機、もっと言えば、その時代の社会や権力がそれを求め、強制する場合すらある。いや、それこそが、社会や権力の本質とも言える。

思い込み、信じ、求め、確信し、そしてそれが自分の信念となり、強固な意志や心情となる。自己を放棄した気弱な脳ミソが、自分の都合に合わせて勝手に幻想を作り出して、それを現実と思い込むのである。その方が生きやすいし、ラクだから。言い換えると、脳ミソがウソをつき続けるのである。そして、社会とシステムがそれを要請するのである。

そうやって自分自身と社会を偽(いつわ)り続けている、といえば言い過ぎである。それは偽りだろうけど、それが社会のキズナ(絆)であり、シキタリなのだから。そうやって、みんなが生きているのである。そうやって世の中がうまく回っているのである。明日は知らない。しかし今、今日がそうやってうまく楽しく生きて行けるのである。

無いものが見えて来たり、有るものが見えない、見ていない、見ようとしない、見てはならないものとして避けている。だから見えないし、見えないはずなのである。黄色を赤く感じたり、少ないものが多くあるように見えても来るし、また、そのように思い出されてくる。そうでなければならないのである。生きて行くというのは、そういうことなのである。

特に印象的で象徴的なもの。それは同時に自分にとっての、自分の利害にとっての印象と象徴であり、そうであって欲しいもの、そうでなければならず、そうであるはずの印象であり、象徴であり、そして、そのように感じられても来るし、見えても来る。そして思いだされ、それだけが記憶に残る。記憶とは、何よりも自分の都合なのである。そしてこうしたことが、「観念的映像」なのである。

もどる。             つづく。