「さまようタマシイ」
〜10、記憶のカタチ。
それは必然であって、現れるしかないのである。ちょうど闇の中を光が射すように、あるいは水の底から何かが浮かんできて映しだされるように。それが自分でもわかるし感じられもするし、そしてまたそうである以上、カタチあるものとして記憶に残しておかなければならないのである。でないと、誰も気づかないまま忘れられ失われて行く。 カタチがなければ記憶として残らないのである。それはイメージであったり、声であったり、気配であったりもするが、なんでもよい、とにかく何かカタチとして記録し記憶として残しておかなければならないものなのである。 それは、祖先の魂(たましい)の世界を見ているのであって、無意識の肉体の記憶が神のお告げとして、自分自身の肉体の中から聞こえてくるのである。それは肉体の中で、祖先のタマシイと自分とが交流し対話しているのである。 もっと正確に言うと、肉体の純粋な感覚、自分自身の感覚の感覚として感じられてくるということなのである。感覚とは、祖先の記憶が肉体の機能として現実のカタチになったものなのである。いま生きている僕の肉体は祖先の記憶のカタチなのである。 |