「さまよう感覚」

〜5、場所。


空想とはこのことなのである。現実を離れて、現実から切断された世界に自分も他者も存在し得ず、それらは同じ自分の中の夢や空想に過ぎなかったのである。そして、そこから出るということがないのである。この世界から「出る」ということは、現実との係わりを持つということを意味しているのである。そして実は、夢や空想というのは、このような現実との接点のないところに成り立っているのである。あるいは、成り立ち得るのである。また、成り立たざるを得ないのである。そしてまさにここが、夢と空想の存在する「場所」なのである。

自分が自分の相手の他人になっていたり、あるいは自分が岩や壁や空気になっていたり、そしてまた再び自分の肉体に戻ってきたりしている。なぜか?自分を制限する現実の存在がどこにもないからである。このような夢の世界に存在そのものが成り立たないのである。それは現実の出来事ではなく、空想の世界での出来事に過ぎないからである。それも、自分で自分をとらえたり確かめたりすることも出来ない、そうした限りなく曖昧でボンヤリした世界なのである。

確かめようがないのである。そこは、確かめることの出来るようなものが何一つ存在しない世界だからである。いや、存在そのものが、自分を含めたこの世界に何一つ存在しないのである。それは夢の中、あるいは感覚のとりとめのない妄想の世界、現実から抜けでた観念だけの、それだけでひとり歩きし、自分勝手に遊びを繰り返す、そうした、現実世界から切断され何ひとつ確かめることができず、存在そのものが成り立たない、そんな、現実世界から断絶した純粋に観念だけの、閉じた感覚の世界である。

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