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~4、罪の意識。
何をやっても許されるという以前に、許される本人自身の意思が存在しないのである。これが、意志なき感情だけが支配する世界なのである。 だからまた、道徳とか法令違反で罰せられることがあっても、それは、外からの強制でしかなく、本人の内面からの罪の意識とはなり得ないのである。真の苦痛とはならないのである。(だからシアワセなのである)そもそも、内面そのものが非常に希薄なのである。また、社会全体もそうしたことを望まないのである。こうした社会にとって、内面性などは、関係のないどうでもよいことなのである。 だから、だれもがひたすら土下座する。だがそれは、他人に対してであって、自分自身に対してではない。自分自身に対しては、それは、どうでもよいことなのである。だからだれも、罪の意識をとがめようがないし、とがめようともしない。また、とがめることもできない。なぜなら、そもそも自己意識というのがないのだから。自分自身といったものが、あいまいなままだからである。 だれもがみな、そうなのである。だから、それに疑いを抱くといったこともなく、何かしらの違和感を感じるといったこともなく、また、それを不思議ともオカシイとも、感じるということがないのである。これが、フツーという意味なのである。 戻る。 お終い。 |