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〜9、未知。



といっても、それら感覚自体の障害や不具合、
混乱や錯覚などと言っても、それはそれで、
感覚自体の限界を示しているのであって、
その限界の境界線上、および、
境界の外の世界については、
感じられない、というだけのことなのである。
それは、人間にとっては未知の世界なのである。
「感じられない」とは、無いということではなくて、
自分にとっては「未知」だということなのである。

しかし、もしかすると、そうした場合でも感覚は、
何かを伝えようとし、その表現に苦しみながらも、
言い知れぬ何かを感じて、
必死に感覚に伝えようとしている。
そう思えてならない。どうしても、
そのように感じられて仕方がないのである。
そうとしか、説明のしようがないのである。
それ以外の原因が、どこを探しても無いのである。
感覚の、こうした苦しさや、つらさは、
そうとしか言いようがないのである。

だから混乱もしているし、整合性や筋道を欠いた、
とうとつで、わけのわからない、幻のようなシルエットが、
現実のまぶしさや暗さ、あるいは、空気のゆらぎや、
その裂け目から、なにかの気配として感じられてくる。
めまいのするような現実の中から、何かが見えたように、
思えてくるのである。まるでカゲロウや蜃気楼のように。
風のささやきや、小川のつぶやきのように。
言い知れぬ人の気配のようなものを感じてしまうのである。

そうしたことは本来、人間の感覚器官で
感じることの出来ないものなのであって、
本来ある人間の五感にないものなのである。
にもかかわらず、それが何か言い知れぬ直感として、
第六感として、五感を超えた本能的な肉体の感覚として、
意識され、感じられてもくるのである。
何かの衝動や、めまいや、あるいは幻のように。

   戻る。             続く。