< 2017目次 < 続:「見えないもの」


〜1、「異界」



「見えないもの」とは、要するに、自分にとって都合の悪いものなのである。だからそれが、自分のなかで見えることがないように出来ているのである。人間は、そうした文明というシステムの世界を生きている。

「見えない」とは、見ていない、見えていない、見えるはずがない、見えてはならない、そしてまた、見てはならないもののことである。しかしそれでもやはり、それに気づくし、感じることがある。いろんな様々な感覚が集まって、つながって、そしてそれが統合されて、言い知れぬ「直感」として迫(せま)って来るのである。

本能とか衝動、第六感などとも言われている。それが、何かの予感や象徴、暗示となって迫ってくるのである。導き、誘うもの、求めるもの、あるいは、避けて遠ざけるものとして暗示される。避けて、避けて遠ざけていてもいつの間にかすぐ近くに迫ってきて来ていて暗示し、示唆し、印象として残っているのである。

それらはたいてい、意識の外、自分の意識の届かない世界であって、感覚というよりも、感覚以前の「直感」として感じられるものであるが、それが何なのか自分でもわからないのである。自分の意識の外にあって、意識を包み、その根底にあって、精神の無限の地平、地肌、背景となっているものである。

自分の精神に属してはいるが、自分の意識の届かない世界なのである。情緒とか、感じ方の指向性とでもいったものなのである。あるいは、精神と肉体の境界線上、または、自分と外の世界のちょうど境界線上にあって、自分と他人の区別のハッキリしない、ボヤけて、あいまいな、おぼろげにかすんで見える世界である。

自分のものでありながら、自分でもどうにもならない世界なのである。言わば、自分の中にある異界、自分の中に住む他人のような異質な世界なのである。

戻る。            続く。