< 続:指向性


〜14、「順序」


だからまた、このような必然性といったものは、
それ自体が、何かしらの指向性や方向性といったものを、
初めから、もともと持っていると言わざるを得ない。
このような指向性こそが、必然性の前提なのである。

必然性とは、それを見る側、つまり、人間にとっての
合理性や論理的な型式・仕様のことであって、
人間のそのような思考そのものが、すでに何かを指向し、
何かを基準としていて、そこから現実を見ているのである。
だからまた、その対象としての自然もまた、
指向性をもつものとして捉(とら)えられるのである。

そうせざを得ないのである。そうしてのみ論理的思考が
成り立つのである。そうやってのみ、自然が法則や秩序、
そして理にかなったものとして捉えられるからである。
自然を理性または法則あるものとして
捉えようとするならば、それがあらかじめ、指向性ある
方向性を持つものとしてとらえるしかないのである。

そして、その方向性がたどってきた順序、つまり、
移り行く時間の流れの中を変化して行くありさまが
必然性としてとらえられるのである。
条件づけられた方向性や、そして、
時間的に移動し変化してゆく、その順序が、
人間にとって見れば、必然性と感じられるのである。

当然そうなるしかないのである。時間的な変化そのものが人間の論理的な思考によって捉えられるからである。秩序をもった原理に適うものとして。あるいは、混沌とした捉えどころのない無秩序な偶然だけが支配する世界として。しかしこの「無秩序な偶然」というのも、人間がそのように捉(とら)えているということであって、それ自体が人間の論理的な思考から見ているのである。

人間は、人間自身の都合から現実を見ている。それが人間と現実世界との係り方なのであって、そしてそれが、人間自身の存在の仕方なのである。それは、そのようなものとして規定されてくるし、規定されざるを得ず、また、自らを規定しカタチ作るものとしては、それ以外にないのである。


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