< 続:指向性


〜12、「常態化」


春の空気の色のシロさというのが、
なぜか、より印象に残り。よりシロく、より明るく感じられ、
また実際、そのように見える。たしかに、その通りなのである。
まだ寒いのは冬のなごりであって、世界全体がまだ寒いのに、
空気と、太陽の陽ざしが明るく、そして白(しろ)く見えるのである。
非常に薄い白さではあるが、たしかに、そう感じるのである。

それは、春の太陽が徐々に、
地上の真上方向に向かうからであって、知らないところで、
地表面に届く光の量が増加して行くのである。
暗い冬から、明るい春へと徐々に移行しているのである。
それは、明るさの変化の方向なのである。

この「移行」といこと。それが、人間の目には、
暖(あたたか)かさや明るさ、そして気持ちの上でも、
より強く、そう感じられるのである。
暗いところにずっといたのに、それが少しづつ気づかないくらいに、
明るくなってゆく。だから、明るさというのが、より強く、
人間には感じられてくるのである。

ただし、目でそれとハッキリ意識することはなく、
また、意識させられるほどの急激な変化でもなく、
それはむしろ、気分的な明るさ陽気さとして、
気分や情緒のなかに現れている。
たのしさとか、うれしさとしてである。

それは肌に触れる、空気のおだやかさや潤い、
暖かい陽ざしといったもの。そうしたことのすべてが、
より強く、人間に印象させるものとして迫ってくる。
人間は自分の身体の全体で、五感のすべてで、
それを意識することなく、経験し、感じてもいるし、
無意識のうちに、自分の身体で記録しているのである。

肉体自身で保存し、記憶して、自己の情緒の記憶中に、
入り込んでゆくのである。生理作用や神経統合のパターンとして、
最適化され、通常化されてゆく。それらはすべて、
人間自身が意識せずに、無意識のうちに、
肉体が自然に、肉体独自にやっていることである。
そうした積み重ねが、やがて情緒となり、習慣や作法となり、
そしてオキテや常識となる。


戻る。               続く。