< 象徴の世界


〜10、「猜疑心」


文化がどこかで断絶していて、その空白の境界線上を生きている。自分のルーツや、自己の一体性といったもの、そして、自分が自分であることの確証を持てずにいるのである。現実の中で、本来の自分自身といったものが見つけられず、あたりさわりのない体裁だけで、何かムリヤリ、周りの現実につじつまを合わせているに過ぎないのである。自分がだれで、自分がいまどこにいるのかもわからない。

このような自己不在、自己の一体性の切断と破壊は、感覚の世界にも現れている。音や映像やニオイといったものが、現実の世界から切り離されて、それだけで合成され提供される。大衆は、現実に無いものを見て聴いて嗅いでいるのである。スピーカーがそうであり、ディスプレイも、あるいは商店の客寄せのための合成のニオイがそうである。

確かによく似てはいるが、やはり現実とはどこか違う。現実の中に生きていながら、現実とは別の世界、異質な空想の世界を生きている。空想と現実の区別が無くなって、空想を現実のものと思い込んでいる。その方がラクだし、生きて行きやすいからである。だれもがみんなそうだし、だから、それが正しいのである。まさにその通りなのである。

だから、またしても自分がわからなくなるし、自分の感覚や存在の理由についての、際限のない疑惑の世界をさ迷うこととなる。自分自身に対する猜疑心だけが、真実の世界のように思えて来るのである。

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