<1u 自意識
〜8、「破壊」
こうした社会では法律といえども、 個人の内面から発するものにはならない。 それは、みんなという、儒教道徳の延長として、 その強制、個の破壊として社会を支配している ものなのである。 だから、論理的で理性的であるはずの法律というのが、 実際はタテマエと飾(かざ)りにすぎず、内実はいつもコネと 談合、そして「みんな」という無意識の情緒が、 社会を支配し、強制し続けている。どこにも「個人」というのが 存在しないのである。新聞もマスコミも映画も小説も、 すべてがそうである。つまり、偽りの世界である。 コピーとパクリ、ナリスマシだけで成り立つ世界である。 他力本願である以上、そうなるしか無いのである。 それをみんなが願い、そして政府が誘導し続けて きたのである。数百数千年に渡ってである。 それは日本の自然環境や風土、そして生存の様式と 密接に関係しているのである。 だからまた、それが自覚も意識もされることもなく、 そのまま、ずっと続くのである。文化や伝統、のみならず、 感じ方や情緒、思考パターンに至るまで、まるごと、 何もかもがそうなのである。だから、それが意識される ということが無いのである。 自意識というのが自覚されようがないのである。 あまりにも当然の常識に誰も疑いをいだかないのである。 もしもそれに疑惑をいだくとなると、 この社会自体が成り立たなくなるのである。 この社会が前提としてきたものが破壊されるのである。 だから誰も疑ったりしないし、疑うことも出来ないのである。 個人というのが存在しない。 肉体としては存在しても、精神としては存在しないのである。 だから、義務も責任も、周りのみんなに対してであって、 それが、自分自身に対してはどうなのか、というのが、 いつもアイマイでぼんやりしたままなのである。 |