<1u 自意識
〜7、「みんなの願い」
しかし、よく考えて見ると、人間社会というのは、 もともと、そうなのかも知れない。 人間が生きていること自体、なんらかの理由や意味が 必要なのであって、それを自分で見つけることほど、 つらくて苦しいことはないのである。 だから、ウソでも、空想でも、偽(いつわ)りでも、 なんでもよいのである。それが自分の理由になりさえすれば、 それでよいのである。みんなと一緒にいて、みんなと同じであって、 みんながそうであると思えるようなものであれば、それで よいのである。なんでもよいのである。どうせそれがホントか ウソか、正義か悪か、などということは誰にもわからない ことなのだから。だから、みんなが良ければ、それが正しいのである。 暴力はシンプルである。だれにも公平で、そして、 わかりやすいのである。儒教道徳がそうである。 シツケ(躾)と暴力は常にセットでやって来て、 人民を矯正し、誘導し続けて来たのである。 「目上の者」と「目下の者」、そしてみんなが望むものが、 そうである。 内面は何ら問われることはない。むしろ、 このような儒教世界では、自分自身の内面世界は 問われてはならないものである。内面を無視し、 押し殺し、破壊して、儒教道徳というシツケと暴力によって、 社会が成り立つ世界である。 |