< 社会のカタチ。


〜3、「なりすまし」


生まれたばかりの初期の共同体には、
いまだ個人というのが存在しない。あるのは、
共同体の共有意識、シキタリとかオキテといったもので、
それと対立する個人の自己意識といったものは
存在しない。そうした意味で個人が、自分で共同体の
シキタリに疑問を感じたり、考えたりするのは、
あってはならないし、また、出来ないように社会の
システムが機能している。そうやって生存のシステムが
維持され継続されるのである。

それに従うしかないように社会が、
初めから仕組まれているのである。
設定ないしプログラムされているのである。
だから、それに従わないのは、この社会にとっての
災いのタネである。破壊分子(まったくその通り)であって、
隔離、駆除、破壊、あるいは追放される。
中世の魔女狩り、近代の政治犯収容・処刑がそうである。
古代から極少数派であり続けたユダヤ人もそうであり続けた。

共同体ないし社会といったものが、
自立した個人の自意識に基づくものでない場合。
個人の内面にある、自分にしかない、自分が自分で
あることの証明といったもの、そうした自己の信条、
自分自身の判断、決断といったもの、自身の個性や
自分の良心といったもの、そうした自分自身の心の拠り所、
といったものが心の中に存在しない場合である。


     ×         ×

反対に、個人の権利義務といったものが、
自分自身の良心によって成り立つ場合。こうしたことが、
近代の社会と言える。ただしそれは、それが成立した
ヨーロッパで言えることであって、東アジアは別である。
「なりすまし」とコピー、そして言葉の上だけで理解したと
思い込んでいるのである。自分のルーツや、
自身の肉体の感性や記憶とは、
切り離された世界に生きる人々の社会である。
だから、自意識というのがどこかで切断されていて、
バラバラで、あいまいになっていて、二重底になっていて
自分の理由というが見つけられない世界に生きている。


戻る。             続く。