< 社会のカタチ。


〜4、「生まれたままの姿」


すべての個人の権利・義務、内面の自己意識といったものを
否定した上に成り立っているのが、初期の、生まれたばかりの
自然なままの共同体社会である。正確に言うと、原始の
共同体には、いまだ個人というのが形成されていないので、
「否定」もなにも、無いものを否定することなど出来ないのであるが。
否定とは、有るから否定出来るのであって、無いものを否定など
出来ないのである。

しかし、このような個人を否定したところに成り立つ共同体の
絆(きずな)とは、いったい、どのようなものなのだろうか。
自立した個人というのが存在しないし、あってもならない。
そうした、自己意識というのが絶対的に否定されることが、
前提となっている社会である。

だから、キズナ(絆)といったものは、何も考えてはならない。
考える必要も、考えることも出来ない社会である。
自分が生まれて生きている、いつまでも変わらずにいる、
ありのままの、自然な、生まれたままの姿が、共同体の
キズナとなる。つまり、血縁に要約される家父長制である。

疑わず、問わず、考える必要もない。
イヤ、考えるものであってはならないのである
それは、何かを意識させるものであってはならないのである。
あくまで、自然のままで、無意識のままで感じられるもので、
なければならないのである。

つまり、それは「情緒」である。心情といったものである。
雰囲気とか気分、空気といったものなのである。
限りなくうすく、そして軽く、ただ自分を包む空気の中を、
ふわふわ、ひらひらと漂い続けているのである。
「情緒」がすべてを決めている。
その場その場の空気が人間を支配している。
まわりの雰囲気と気分で、自分が生きている。


戻る。             続く。