「さだめ」


〜1、同一性。


型式とか形式といったものは、定まったもの、変わらないもの、あらかじめ決められたものであるが、それは表面的な外見上の、目に見えるカタチにおいてそうだと言えるのである。だから、その中身が問われることがないし、知ることも出来ないし、知る必要もないのである。そこで問われているのは、表面的なカタチだけなのである。

そうではなくて、それとは正反対に、表面上の目に見える部分は常に変化し続けているのに、その中身や内面といったものが、少しも変わっていない場合がある。このことなのである。その内的原理、その必然性において常に同一であり続けるのである。いまある現実をありのままに見ると、全然別のものに見えるけれども、それを時間の経過の中で見てゆくと同一のものに見えてくる。同じものが時間の流れに従って変化し続けているだけなのである。

どういうことかと言えば、色や模様、すがたや輪郭が常に変化しているにもかかわらず、その変化のパターン、変化の方向や指向するところ、その秩序や順序、変化の仕方や、その規則性といったものが常に同一なのである。表面の外見的には千変万化し、多種多様に変化をくり返しているのであるが、それらすべてに首尾一貫した同一の共通性、秩序や規則、方向性が現れていて、それが確かめられるのである。外見上のカタチは変化していても、その本質的な実体は少しも変わるということがないのである。

それが変わらないのは、それが自己の同一性だからである。変わらないというのが、自己が自己であることの証明なのである。表面上、あるいは外見上どのように変化しようとも、そしてまた、変化そのものが常態であったとしても、どこか変わらないものがある、ということである。それは外見上のすがたカタチではなくて、むしろ、それを生み出している本質的な様式において、そうなのである。

それは、そのものが本来持っている、本質的な内的必然性であり、原理なのである。そこにしかない、それだけが持つ、それだけで自律した、他のものと区別される特徴、個性なのである。それは言わば、概念上の区別、概念上の輪郭や領域といったもので、そうやって現実の世界を観念化し、合理性の下に理解しようとしているのである。

戻る。              続く。