「さだめ」


〜2、原理。


それは、ホロスコープ(万華鏡)の世界に例えることが出来る。それは、筒を少し揺らすだけで、無限に多様な姿の花の世界を見ることが出来る。その中で繰り広げられる花の形や、枝分かれしてゆく、それらの全体のすがたといったものは、たしかに無限の変化を感じさせるものである。

だがよく見ると、そこに現れる花を構成する最少単位、カケラの数と色は常に同一で、この同一であり続ける構成要素によって、ホロスコープの世界は成り立っているのである。そしてその模様のパターンにも、左右対称などという首尾一貫した規則性が見られるである。

この無限に見えるホロスコープの中の世界も、六角形という、四角でも八角形でもない、六角形という筒の中で繰り広げられる、光の反射と、カガミ(鏡)の中の世界なのである。そうした、全体構造を持つ、システムの世界なのである。

ということは、無限に変化する花の世界というのが、この六角形というカガミ(鏡)の中の世界でのみ可能なのだ、ということである。そうした、制約され、条件づけられ、方向づけられた、そしてまた、あらかじめ定められた世界だということである。

しかし、それはまた、人間の世界についても言えることなのであって、地球という、時間的にも空間的にも制約され条件づけられた、舞台の上でのみ可能なことだったのである。言わば、巨大なホロスコープの中の世界なのである。そしてまた、その中でのみ、人間の歴史は成立し得たのである。

その意味で人間の歴史は制約され、条件づけられたものにならざるを得ず、そしてまた、歴史が始まった時点で、あるいはそれ以前に、人間の歴史はすでに方向づけられていると言わざるを得ないのである。

ここで言うところの「方向」とは、時間的な変化であって、現実の外見や形式とは別の、それ自体が持つ、変化の内的原理と様式である。指向する精神の内的必然性なのである。それは、それにしか成り得ず、それ以外になく、それだけでしかないのである。それがまさに自分自身なのである。

戻る。              目次へ