「自分自身」
〜6、自意識。
生き方、考え方、そしてそれ以前に、感覚の感じ方といったものが、それまでとは異質なものになってしまっている。感じ方そのものもそうだし、そしてそれとは別に、それまで感じることの無かった未知の、異質なものを察知し、感じて予感し、予測している。気付かなかったことに気付き、見えなかったものが不思議と見えてくる。 いままで感じるということ自体が無かった未知のものが感じられ、そしてまたそこに、法則性や合理性を発見している。そしてまた、自分の中にもそれと同じものを見ている。意識された自分自身の理性でもって外の世界を見ているのである。 現実の生きた主体とは、言葉でも、概念でも、理性でも、理屈でもない。それら以前の直接的なものである。言葉にも概念にもならない、それ以前の直接の、現実と自然と精神が一体となった、まだ区別されない状態である。これが現実の意識であり、生きていると いう状態なのである。 自己認識や自意識といったものは、言葉(コトバ)や理屈ではないのである。自分が今、生きている現実がそうさせるのである。それが主体というものであり、自己と他者が分離・区別される瞬間なのである。自分で自分が意識される瞬間なのである。自己の主体としての自分自身の、精神の領域とその境界、そのすがたといったものを自覚したのである。人間が初めて、自分自身というのを捉(とら)えたのである。 それは外からやって来る「権威」でも、強制でもなく、自分自身の中で生まれたものだ。いま、考えて行動している、今を生きている、現実のなかにいる自分のことである。何も仲介せず、何も媒介せずに、精神は直接に自分の下にあるのである。個として現実と直接に 対峙しているのである。 |