「紅白」


〜3、象徴。


このような心の限界、立入禁止の区域といったものは、どの時代のどの文明にもあるように思える。文明そのものが、それを前提としていて、またそれを作り出すのが文明というシステムのように思えて来る。文明とは一つのシステムであって、そうである以上、そのシステム特有のルールとマナー、規則や制限、方向性や前提といったものが、当然、備わっているのであって、だからこそ「システム」と言えるのであるが、そうである以上、そうでないもの、それに合わない者、異質なものが当然、出てくるのであって、差別や排除、隔離や消去(処刑)といったことが当然、起こってくる。

それは正義とか道徳などといったこととは関係のないことであって、ただシステムの制約から、そうされるのである。あるいはまさに、それが正義とか道徳の正体なのかも知れないのである。それは、システムの自己保存の必要から、そうされざるを得ないものなのである。

文明が起こり、そして起こるとは、このことなのである。当然、思想上の殉教者たち、身体上の病気持ち、障害者などは排除され、消される。「消される」というのは、知られるとマズイのである。文明のシステムの正当性が疑われることになりかねないのである。人知れず消さなければ、ならないのである。だからまた、隠し続けなければならないのである。見ても聞いても、そしてまた、人知れず自分自身に問うてもならないのである。それが、イマシメ(戒め)なのであり、世の中のオキテ(掟)というものなのである。だれもが知っていることなのに知らないことにしていなければならないことなのである。

従ってまた、常に、いつでもどこでも心しなければならず、脱線してはならないのである。世の中で、自分が生きて行けなくなるのである。誰からも相手にされず、村八分にされ、収入が途絶え、一人ぼっちの孤独の世界を苦しみ、絶望の淵で精神が破壊され、経済的にも、肉体的にも生きて行けなくなるのである。だから、まさにこのことを、思い起こさせ、呼びさますのが、この紅白のパターンなのである。だからまた、これこそが「国民統合の象徴」なのである。象徴となり得るのである。

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