「形式的考え方」
〜8、量産。
「形式的思考」、それは思考の規格大量生産である。だれに対しても、その実体や裏付け無しに、それを無視して居場所と存在の理由を与えてくれるのである。これは、思考と生活を画一化・均質化するものであって、その中で人間は自分の存在理由を得ることになる。 だから、どうしても権威指向とならざるを得ない。権威が自分の規格をランク付けしてくれる、というわけである。社会の中での自分の上下関係と、ヨコの仲間としての繋(つな)がりを示してくれるのである。 自分で自分の考えを持ったり、自分自身の個性や規格といったものがない。だれもが個性があるように見えながら、それらすべてが自分の外から押し付けられる規格やランク付けに過ぎないのである。だから、自分の考えや自分の自己意識といったものを持つ、ということがない。かいま見ることも、意識することもない。そういう必要のない世界なのである。もしもそれを意識すると、自分の理由を見失うことになる。だから、そういうことは避けるのである。自分を意識するということは、許されないことなのである。たとえ、意識しなくても、そうである。 自分と他人の区別がどこかあいまいなところがあって、人格やプライバシーといったものが、どこかぼんやりしている。それが明瞭に理解されることも意識されることもないのである。ランク付けとか規格といったものは、個人のプライバシーと個性を無視したところに成り立つ原理だからである。 現実というものを無視して、世界をあらかじめ思考のなかで設定したカテゴリ(分類区分)に従って区分けして、その内容にかんけいなく、決められた枠組みの中の「型」にはめてゆく、という考え方である。ただそれだけで、どんなバカでも自分が賢くなったと思えてくる。周りもそのように見なしてくれる。周りもみんなそうだから。つまり、非常に効率的で合理的なのである。管理しやすく統治しやすい、人間タイプである。 つまり、「形式的」なのである。思考のコピーである。中身が何もない。表面のカタチだけの世界である。表面だけのカラッポで空虚な世界である。外面上は何でもよく見えるが、見えるものの意味が何も無い、という世界である。世界には何でもあるが、その実体というのがどこにもないという世界である。 |