「アイデンティティー」
〜11、個人。
それは言い換えると、みんなが共に助け合いながら生きている、というタテマエである。だれもがそういう大義名分の下に反対のことをしようとする、そのためのタテマエなのである。そうやって、「みんな」という集団のシステムが維持されている。群れて媚びて迎合して出来上がる、そうした自分の考えというのがない世界である。そうである以上、どうしても外面的な大義名分が必要なのである。内面的な精神の実体がない以上、そうするしかないのである。 要するに、弱者を脅し隠し隔離し追放するということである。誰もが生きて行くために他人を踏んづけるのであて、そのためのタテマエなのであって、大義名分による理由付けがどうしても必要なのである。個人というのが存在しない社会にあっては、生産性が向上することも、拡大することもなく、まただからこそ、そうやって社会というのが維持されるシステムなのである。 そうである以上、集団的な規格に合わない者、異質で変わったものは人知れず排除され、抹殺される。それがこうした社会が成り立つ条件なのである。変らないこと、みんなが同じであること、そしてまた、時間的・歴史的にも同じ秩序、同じ上下関係でもって固定され、変化というのがないというのが、こうした社会が存続する条件となっている。それは、自己意識というのが限りなく希薄で曖昧な世界である。個人というのが存在し得ないのである。それは個人が存在してはならない世界なのである。 自分のものと他人のものとのケジメが曖昧で、その時々の感情と思い込み、気分や情緒に左右される。それはつまり、周りの空気であり、周りの雰囲気ですべてを決めている。自己意識がないというのはこのことであって、自分と他人を区別し識別する人格や人権の概念がないのである。 |