「アイデンティティー」
〜10、社会の型式。
まったくバカげている。世の中全体が精神異常者で成り立っている社会なのである。そうであるためには「変わらない」ということ、それがこの社会の決定的で致命的な前提となっている。 個人というのが、自分で自分のことを生きようとせずに、自分より強い者に媚びつらって生きて行こうとする。またそうしてのみ生きてゆける社会。上下関係の中に自分を組み込もうとするのである。それ以外の生き方というのを知らないし、できないのである。世の中の全体の仕組みがそのように出来ているのである。それはこの社会では許されない生き方なのである。 従ってまた、個人が個人として自立することもなく、プライバシーや人権の概念は、このような儒教社会にとっては合い入れないものなのである。したがってまた、いつまでも変わらずに同じことがくり返されるのである。それは永遠不変の絶対的なものとして理解されている。 東アジアでは数千数百年、大朝が幾度も変わったが、その根本としてのシステムの実体は決して何も変わることがなかった。変わらないということ、それが絶対的な真理とされたのである。このような自分と他人との区別がハッキリしない、主観性だけの思い込みと空想の世界を生きてきたのである。これは閉じたシステムであって、だからこそ、永遠に不変であり得たのである。 それは、この文明の根源としての、発祥以来変わることのない生産様式としての稲作から来ているように思える。自分たちという「種」の保存という要請からである。女と次男以下は切り捨てである。土地を与えられない、つまり、生きて行く方法を喪失するのである。しかしまた、だからこそ、上下関係が絶対視されるのである。そしてまた、このシステムが永続する条件ともなっているのである。根本にあるのはそれだけと言ってもよい。従ってまた、支配と隷属の関係、主人と奴隷の関係が容易に出来上がる。そしてそれが絶対的なものとして固定化される。これは現在の日本社会においてもそのまま当てはまる現実である。 |