「アイデンティティー」


〜9、不変のもの。


現実にある文化や、法律や、ルールとか、マナーとか、そうしたことが習慣や当然のこととして、ごく自然な、無意識の気にもならない情緒となっている状態。条件反射、またそれが固まって習慣となっている状態。

このような状態の中からは自分自身というのは意識されない。個人は集団のなかに理没したままである。自分で、自分の意識を意識することもない。そうしたキッカケも、場面も、必要も、そうした社会にはないからである。それはシステムの根本的な変化のない、同じことが永遠にくり返される世界である。

千数百年にわたって東アジアを支配してきた儒教精神、そしてその、秩序と上下関係のあり方がそうである。何も変わらない。表面上は多少変わっても、内実はけっして何も変わらない。変ってもならない。そしてまた、この変わらない不変のもの、例えば皇帝に対する忠誠、親に対する孝行がそれである。

そして、なぜか目下の部下や子に対する慈(いつく)しみの義務といったものがない。目上の者に対する一方的な義務のみが絶対視されている。それどころか、「個」を破壊してまでする「上の者」に対する忠義こそが最も美しく貴い美徳とされ、人の道とされる世界である。人権の概念からすると全く理解不可能な世界、個人というのが存在しないというのが儒教の世界である。

このような「上下関係」にがんじがらめに縛られる。それに疑問をいだいたり、考えたりするのは、絶対的な「悪」とされる。それは絶対的な、永遠不変の変わらないものであって、どんなことがあっても守り通さなければならないものなのでる。。けっして変わってはならないものであって、そしてまた、この永遠に変わらないということが、絶対的な真理とされたのである。個人をないがしろにし、破壊し、殺すことを美徳とするというのが、この社会を成り立たせる原理なのである。

もどる。              つづく。