「アイデンティティー」
~8、切断。
しかし、そうした感覚や生活といったものが、どこかで切断されているとすると、それはもはや別のものなのである。自分自身の精神や情緒といったものが自分のものではなくなっているのである。自分で自分を自覚できなくなっているのである。現実と自分というのがどこかで切り離されていて、自分が自分でなくなっているのである。 例えば移民というのがそうである。あるいは異民族による支配がなされる場合もそうである。自分が生きている同一の領域においてさえも、自分が生きて身につけてきた感じ方や躾(しつけ)や常識や、そして自分たちの「信じるもの」から切り離され分離されてしまう。自分たちの魂(たましい)を見失う。 自分が歴史的にも同一であるという、祖先の魂(たましい)がないがしろにされ、辱められてしまう。しかし、それこそがまさに自分が自分であるという、たしかな印(しるし)であり、証明なのであって、それが否定されてしまうのである。自分の存在が破壊され見失ってしまうのである。しかしまた、そうした中でしか自分自身というのを見つけられないのである。見ることも気づくこともないのである。失って初めてそれが何であったのか、というのを知るのである ここが大事なのであって、そうでないと、いつまでたっても自分というのが見えて来ないのである。人間はあくせく働きたくないのである。必要以上のことをしないのである。だから、こうした自分の存在が破壊されない限り、なにも見えて来ないし、見ようともしないのである。そうである限り、自分で自分を否定し世界を客観的に見るということがないのである。自分自身に気づくといったことがないのである。 自分の精神と現実が分裂して切り離されて、外から自分のタマシイを問い直すといったことが起こらないのである。しかしまた、それなくして自分が自分に対峙するという自己の発見はないのである。 |