「アイデンティティー」
〜4、違うもの。
そうした感情や情緒のあり方といったもの、そしてその特徴といったものは日本人にも、イヤ、日本人でなくても、だれにもわかりやすいものである。しかし、だからといって、たとえば日本人(ロシア人でも中国人でもかまわないのであるが)が、そうした情感や情緒といったものを持ちうるか、と言えば、そうではないのである。 日本人の情緒、感覚の感じ方といったものは、そのように出来ていないのである。そうした気質を理解することは出来ても、そうした気質に成りきるということが出来ないのである。もともとそのように出来ていないのである。情緒とか気質の根源にあるものが、そもそも根本的に異なるのである。それが成り立つ精神の地肌や背景といったものが、そもそも根本的に異なる異質なものを土台にしているのである。 これらのことが、もともとそのように出来ていない、という意味なのである。感覚とか心情の中で理解することは出来ても、自分自身の情緒として、その中に溶け込むことが出来ないということなのである。肉体と情緒の感じ方といったものが、民族によって個性的なのである。それぞれの民族には、それぞれに応じた特有の情緒と感覚の感じ方が、民族の個性として現れているのである。 しかしまた、だからこそ理解することが出来るのである。「違う」ということがわかるのである。自分と相手との間にある境界線を自覚するのである。この境界線がなければ自分と相手との区別が出来なくなる。 言い換えると、だからこそ異文化というのが理解し得るのである。自分と同じものなど比較出来ないのである。それは他者との関係性において見えてくるものなのである。違うものであるからこそ、それが自分とは別のものとして意識されるのである。カタチの表面的な違いとしてではなく、内面の質的な違いとして見えてくるのである。 |