「めざめ」
〜9、ルネッサンス。
自分が生きているというのがわずらわしく、うっとうしく、現実の何もかもが他人ごとのように思えて来る。現実というのが表面だけで、中身がカラッポで見栄と体裁だけで出来ている。目に見えてくるのは姿(すがた)カタチだけで「実体」がどこにもない。 精神とタマシイを欠いた、いわば、人間という姿を外からかぶせただけのオバケの世界に思えてくる。イヤ、実際そう見える。服も、顔の表情も、しぐさも、ライフスタイルのすべてがそうである。白々しい、作り物のオバケの世界に見えて仕方がない。どう見ても、そのようにしか見えない。内面の実体を欠いたカラッポの、コピーと「なりすまし」だけで成り立っている世界である。 しかしそれは、大衆が望んだことなのである。そのように仕組まれ、また、この世に生まれた途端、そのようにプログラムされるのである。先生の言うこと、新聞に書いてあること、テレビで言っていることを信用してはならない。実際、中身も内容もなくただ肉体だけが、自分の存在理由を見失った肉体だけが動き続けている。そしてその肉体の向こう側には何も無い。実体のないオバケの世界なのである。 つかみどころのないアイデンティティー。自分が自分であることの一体性や継続性が見えないのである。どこかで切断されていて、見えなくなっているのである。こうした現実、今の日本に自分自身の理由、存在の理由などといったものがあるのだろうか。 自分たちの歴史と文化というのが、どこかで無理やり切断され、断絶している。統合されるべき自己のアイデンティティーといったものが、どこかで破壊されている。まさにこうした状況は、中世と近世の境界線上の時代、生成と破壊そして自己の発見の時代、つまり、ルネッサンスの時代と非常によく似ている。 |