「自意識」


〜1、地の果て。


アイデンティティーは歴史と地域に現れる。自分は何? 誰か? そうした自分の理由といったもの。自己認識や自己意識といったもの。それは、自分の精神の内部にあって自分とは異なるもの、違うもの、異質で未知のものとして感じられてくる。そうした関係性が自分というのを意識させているのである。自分が自分とは異なるもの、自分が自分にとって他者である、ということが同時に自分自身というのを意識せざるを得なくさせているのである。自分の中にある自分というのを強く意識させるのである。

他者とは何か? 自分とは異なる、自分とは別の、自分以外の、自分の外にあるものだ。ここに境界線が引かれ、また、それが認識され、外なるものとは異質な自分自身の内なる自律性が意識される。こうした自己と他人との識別が自意識とアイデンティティーにつながっている。

日本人の場合、それは自分とは異なるユーラシア大陸との関係性として現れている。文化と歴史の中心たる中華の人間たらんとしても、それが出来ないのである。結局それとは別の人間でしかないのである。情緒や気質、そしてその精神の内なる必然性において、それはどうにもならないことなのである。

歴史と文化と、その精神において同一たらんと欲したところで、それが出来ないのである。そうした精神以前のところにあるのが日本という「島」なのである。大陸とは海で隔てられているのである。なおかつ、その背後は、ただ広いというだけの何もない(19世紀までは)太平洋だったのである。

だから、中国において大朝が交替をくり返し、新たな国家が成立しても、日本には攻めて来ない。よほどヒマで物好きであっても攻めて来ない。日本から得るものは知れているし、侵略したところでその先には何も無い地の果てだからである。

もどる。              つづく。