「自由」


〜5、争そわない。


たしかに変わっている。島という限られた空間のなかで、異民族の流入流出がほとんど無かったのである。言い換えると、数百数千年と、同じ人間の子孫が、同じところで、ずっと同じ暮らし方をして来たのである。周りの隣り近所もそうだし、隣り村も街も、ずっと同じように昔からそうであり続けたのである。だいたいから、それらの頂点に立つ大朝(天皇)自体がそうであり続けたのである。

こうした社会では争いは起こりにくい。というよりも、現実問題として争いを起こせないのである。空間的に狭く、争いの後に逃れて行く場所そのものが無いのである。同じ場所で、同じ争いを引きずったままでは生きて行けないのである。いままでもそうだったし、これからもずっと一緒に近くで生きて行くしかないのである。

だから、表てだって争いを起こせないし、仲介人に間に入ってもらって、うまく事を収めるのを常としている。日本社会は、仲介人が非常に多いというよりも、それ以上に多いのである。それは現在でも同じであって、ケイレツとコネ、そして談合がそうである。そしてまた、これだけがすべてである。これだけだと言ってもよい。

これが世の中のすべてを決めているのである。正義とか、事の良し悪しなどといった表向きの議論は、どうでもよい飾り、タテマエに過ぎない。ずっと昔からそうだったし、いまもそうである。そうやって世の中がうまく動いているし、また、そうやって世の中が成り立っている。うまく回転するのである。

それは個々人の情緒であり、心情でありオキテであり、シキタリなのである。それはまた同時に、システム化された日本社会の秩序、日本社会と歴史を動かして来た必然の原理なのである。日本人というのを特徴づける、歴史的にも社会的にも首尾一貫した共通性、現実の社会の中で共有され、歴史の中で継続して働き続けている方向性であり、自意識であり、自己の同一性の証明なのである。

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