「桜(さくら)」
〜3、流れ。
そうした心のあり方、情緒、民族のタマシイといったものを、散り行くサクラの花びらのなかに、そしてまた、生と死の狭間に見ているのである。サクラの花びらが散るのは鎮魂であり、、そしてサクラが咲いたのは生命の再生と復活なのである。 新たな生命がこの地にめばえ、生まれ、開いた以上、もはやそれまでの以前の生命は存在理由を失ってしまう。忘れられ、自らを悟(さと)り、消えてゆくのである。ありのままで素直に、何のためらいも、戸惑(とまど)いもなく、みずから消えてゆくのである。鮮やかに、そして美しく。 そして、死んで消える時も潔(いさぎよ)く、そしてみんなと一緒なのである。それはこの地を生きる者にとっての宿命なのである。もはや自分の力ではどうにもならない、絶対的で抵抗不可能な自然の流れなのである。 どうにもならないとは、太陽は西から昇らないと言っているのと同じである。それはケジメであり、みずからの定めといったものであり、そしてまた、それがオキテなのである。そうやって自分のすべてを作り出し、自分を全うし、生きて、そして自らを終わらせるのである。「いさぎよさ」とは、このことである。 それまでの執着や執念をアッサリ、キッパリと捨て去って、どこか新しい世界へと自分たちを律して行くのである。だがしかし、たしかに忘れがたいもの、捨て去りがたいものは、有るのである。そうした苦しみや悩みもあるのではあるが、やはり、アッサリとあきらめるのである。もはや、どうにもならないことなのだから。 |