「風土」
〜11、コネ。
このような気質や気性の情緒的特性をひとことで言うと、並外れた異常なまでの集団的協調性といったものである。他人の心の中に自分と同じものを見てしまう、または、見ようとする(プライバシーのカケラも無い)。あるいはまた、自分が周りのみんなと同じでないと気が済まない。落ち着かず、キズナが切れたようで寂しく、孤独で耐えられない。そうした心の持ち方、気分、情緒といったものである。 集団の中で自分というのが、自分の個性や、考え方や、感じ方といったものまでが同化し、透過して消えてゆく。均質化し、一体化し、失われて行く。個性というのが埋没し失われ限りなく薄らいでゆく。しかしまた、そうした自分を見失ったところにこそ、自分本来の居場所と拠り所があるように思えて来るのである。まるで、それが自分たちの信仰でもあるかのように。 しかし、もしかすると、そうするしか無いというだけのことなのかも知れない。日本においては「村八分」は、あまりに残酷なのである。だから、群れて媚びて迎合することだけが異常に発達したのだろう。そしてまた、コネと口利きだけで、働かずして誰もが生きて行ける社会が出来上がったのである。 日本の社会を動かしているのはコネと談合だけである。いわゆる「実力」というのは飾り、まやかし、迷信、偽善そのものである。社会のすべてが、「コネ」という偽善だけで成り立っている。このような迷信と妄想と夢の世界を私たちは生きている。何も作らず、生み出さず、食いつぶすだけの世界である。そしてまたこれからも、ずっとそうであり続けるのである。まるでインドのカースト社会や東アジア儒教の際限のない迷信の世界をさ迷い続けるのである。 |