「風土」


〜16、一体性。


それは自分を知り、自分というのを理解し、自分を確かめ自分自身を了解しようとする無限の、切実かつ深刻な求めだったのではないだろうか。だからまた、いつも立ち止まることが許されず指向し続けているのである。何かを目指して志向していること自体が自分自身の生命なのである。

それは言葉でも理屈でもない。言葉や理屈は他人から教えられるものである。そうではなくて、自分自身が本当に納得のいくものでなければならないのである。コトバや理屈ではなく、それ以前の意識でもなく、本来の自分自身に備わった自分の中にある感じ方や自律性の問題なのである。むしろ、自分自身の肉体の生理のリズムに近いものである。

自分の肉体の感覚や情緒としての感じ方の問題なのである。自分が生きている自然や、風景や、四季や、そしてその中での自分自身の感覚の感じ方が問われているのである。外の自然と、肉体の感覚と、精神のリズムとが統合されて、そして一体となっている。それらは、もともと同じ一つのものなのであって、それらを別々に切り離して考えることなど不可能なのである。自己の一体性とは、このことなのである。それは自己の根源だったのである。

自分自身とは、自分が生きているこの自然や、風景や、四季の一部分であり、それがまた、自身の自己同一の一体性であり、そしてまた、自分自身の歴史的なルーツの表現なのである。このような「一体性」なしに、自分自身の精神というのは存在し得ないのである。それは、区別であり、境界であり、自分自身の神聖不可侵な精神の領域なのである。

このような現実。コトバでも意識でもなく、それ以前の自分の肉体が直接感じる世界においてのみ、本来の自分の根源があるように思えてくるのである。

もどる。              つづく。