「風土」


〜17、迷信。


自分自身の本来の感覚といったもの、そうしたものが見失われ、消し去られている。本来の自分と一体のものであるはずの感覚といったものが、どこかで切断され、分離されて、自分のもとから際限なく離れて行く。現実から隔離され切断された意識の妄想の中で、合成され、惑わされ、そそのかされ、おとしめられ、辱められている。自分自身がである。そうした際限のない迷信の世界を私たちは生きている。

にもかかわらず、それが真実の世界のように思えて来て、そこから離れようとはしないのである。そこから出て行っても、どこへも行くアテなどないのである。そして何よりも、自分に自信がないのである。そしてまた、それ以上に、恐ろしいことなのである。新たな未知の現実というのが。

なかば、うすうすではあるが、自分のいる世界というのが、偽(いつわ)りと、まやかしの世界であるということが、わかっているのである。それは、すでに終わった現実なのであって、だからこそ、そこから出て行くというのが、恐ろしくてたまらないのである。もはや、帰るところが無いのである。だから、そこにしがみついたままで生きて行くしかないのである。イヤでも信じるしかないのである。たとえそれが迷信だとわかっていてもである。

迷信といえども、何らかの真実が少しぐらいあるのかも知れない。だから、人々から支持されたりもする。だれにも解りやすいし、みんながそうだとすると、なおさらである。しかし、真実も、迷信も、いずれ色あせてくるし、自分自身が安楽を求める限り、真実も迷信と化してしまう。そうやって、現実が限りなく薄っぺらくなって消えてゆく。そして終わる。

しかしそれは、やはり、偽りの終わった世界に過ぎないのである。それは、自己の一体性と同一性(アイデンティティー)が破壊されたところにのみ成り立つ、空想の世界であり続けるしかないのである。そしてまた夢は、いずれめざめるしかないのである。

もどる。              つづく。