「古代インド」


〜1、倒錯。


倒錯であろうと、偽(いつわ)りであろうと、だれにでもすぐにわかるマヤカシであろうと、そんなことは現実を生きている人間にとってはどうでもよいことなのである。大事なことは、なんでもよいから自分に何か意味と理由を与えてくれて、それも楽(らく)して苦労もせずに、また、他人と争うこともなく優しくおだやかに納得させてくれる。そうした意味と理由を与えてくれさえすれば良いのである。

それが原因で自分が知らない他の世界の人々が、たとえ死のうと生きようと、そんなことは自分にとって係わりのない、知らないことなのである。いや、知らない方がよいのである。できれば、何も知らないまま、知らなかったことにして生きていられれば、それが最もよいことなのである。なぜなら、自分のまわりのみんなも、また、そうなのだから。

ただそれだけで自分も納得できるし、まわりのみんなもわかってくれるはずなのである。古代インドの「倒錯」は、このようなインド人が望み欲したものではないだろうか。それがもっとも簡単でラクな生き方だったからである。だれにとっても、そうだったのである。

もどる。              つづく。