「象徴」
〜2、思い込み。
だからときおり、空間が歪むといったことが起こる。カゲロウ(陽炎)や蜃気楼がそうであり、人間の目の中で歪む残像や補色などもそうである。そしてまた、人間の頭の中で思い出される、拡張された印象や記憶の思い込みなどもそうである。そしてまた、信仰や迷信の熱狂状態の中で見る幻覚もまたそうである。私たちは、そうした象徴が意味する主観と偏見の世界を生きている。 現実が簡略化され、それが印象する記号や符号として理解される。または、理解されたと思えてくる。それは誤解である。現実というのが限りなく自分から離れてゆく。そして自分から「理由」が薄れて行き、喪失し、自分が見失われてゆく。だから、象徴が意味するものを、もっとよく知らなければならない。それは、いまだ知ることのなかった未知の世界への予感であり、暗示であり、誘いなのである。 象徴が、向かうべきところを暗示し導いている。しかし、それが何なのかわからないままなのである。だから象徴のままでいるのである。それは何かの感じであり、ひらめきであり、予感なのである。あるいは、何かのタマシイ(魂)なのである。いまだ、姿やカタチとして特定は出来ないが、、そうした中に垣間見る、共通の指向性なのである。姿やカタチは違うけれども、それらが目指す理由と目的において同一なのである。だからまた、そうした指向性において、同じ必然性の下にあると言える。 |