ヨーロッパのの起源(古代ギリシャ) p27


「原理」



古代ギリシャで、歴史上、初めて「個人」というが登場する。それまでは、人間の共同体はあったが、個人としての人間はいなかった。共同体の中から、共同体の中で、共同体と対立し区別されるような、主体としての個人は存在しなかったのである。存在し得なかったし、存在しようがなかったのである。存在してはならなかったし、存在する必要もなかったのである。

精神の内部で、共同体と個人が分裂し対立することによって始めて、共同体というのが生きいきとした活動と、原動力と、内的な原理を持つに至ったのである。内的な原理とは、共同体の共有意識と、個人としての個別意志との対立である。この区別と対立こそが、変化と運動の活力源であり、内在的な、自律した原理となっている。

それは、古代ギリシャにおいては、そうなるしかないような必然として、宿命的なものとして表れている。といっても、人間の考え方や感性、それに、生活の仕方といったものすべてに、それは言えることなのであるが・・・。そう言えるのは、人間すべてに誰もが可能性として潜在的にそうした能力をもっているからである。しかしそれは、あくまでも可能性としてのそれなのであって、現実はそうではないのである。可能性は必ずしも現実として実現するとは限らないのである。しかし、まさにこの可能性を現実のものとしたのが古代ギリシャだったのである。

ギリシャの多様な自然と、暮らしの仕方といったものを、自ら捨てた、もはや行き場のない、新しい暮らしに入って行くしかなかった流浪の民。混沌としていて、もはやカタチを失っていた民族の掃き溜まりの中で、そうした状態の必然の結果だったのである。そして、それが指向し、行き着く先が、「個人」の形成以外になかったのである。


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