ヨーロッパのの起源(古代ギリシャ) p9


「情緒」




それは意識も自覚もされないし、また、
区別も分裂もない。だからまた、シキタリやオキテ、
習慣といったものが、人々を結びつけるキズナとして、
外からやって来るにもかかわらず、自分みずからの、
自発的で内発的なものとなっている。
自発性・内発性と、シキタリが区別できない、
同じ一体のものとなっている。

これが、東洋の精神と根本的に異なる部分である。
東アジアの儒教精神には、自己意識といったものがない。
すべてが権威として外からやって来て、
それだけが人々を成り立たせ、それだけしかなく、
それだけが自分であると勘違いしている。それ以外に、
自分の居場所や理由がない世界なのである。
それ以外に、自分を見い出し得ない世界なのである。
だから、それが常識となるのであり、正義なのである。
正義とは、それ以外に無いのである。

それに逆らう者は、
精神的にも物理的にも、社会的にも肉体的にも、
自分というのが世間の外へと排除される。
これは人間社会の外の人間なのであって、
人間では無いのである。生きて行けないということは、
こういうことなのである。そしてまた、そうすることによってのみ、
社会が成り立っているのである。
社会の「仕組み」とは、こういうことなのである。

古代ギリシャの人々の自意識や内在性といったもの、
それは、彼らが生きたギリシャの自然環境から来ている。
それは、外の自然環境と一体となったものであり、
いったい、どこからどこまでが、自己の精神であるなどとは、
区別ができないのである。自己というのが、
多様で複雑、そして常に変化するギリシャの自然と、
一体となっているのである。だからまた、自らも変化し、
変化し続けたのである。

その暮らしや考え方、感覚といったものも、
このギリシャの自然環境が、
彼らの精神を形づくったのである。
彼らの、その生活、生活の様式、
感情や情緒、感じ方もまたそうである。


  戻る。                 続く。