ヨーロッパのの起源(古代ギリシャ) p10


「舞台」。




それは意識も自覚もされないし、また、
区別も分裂もない。だからまた、シキタリやオキテ、
習慣といったものが、人々を結びつけるキズナとして、
外からやって来るにもかかわらず、自分みずからの、
自発的で内発的なものとなっている。
自発性・内発性と、シキタリが区別できない、
同じ一体のものとなっている。

これが、東洋の精神と根本的に異なる部分である。
東アジアの儒教精神には、自己意識といったものがない。
すべてが権威として外からやって来て、
それだけが人々を成り立たせ、それだけしかなく、
それだけが自分であると勘違いしている。それ以外に、
自分の居場所や理由がない世界なのである。
それ以外に、自分を見い出し得ない世界なのである。
だから、それが常識となるのであり、正義なのである。
正義とは、それ以外に無いのである。

それに逆らう者は、
精神的にも物理的にも、社会的にも肉体的にも、
自分というのが世間の外へと排除される。
これは人間社会の外の人間なのであって、
人間では無いのである。生きて行けないということは、
こういうことなのである。そしてまた、そうすることによってのみ、
社会が成り立っているのである。
社会の「仕組み」とは、こういうことなのである。

古代ギリシャの人々の自意識や内在性といったもの、
それは、彼らが生きたギリシャの自然環境から来ている。
それは、外の自然環境と一体となったものであり、
いったい、どこからどこまでが、自己の精神であるなどとは、
区別ができないのである。自己というのが、
多様で複雑、そして常に変化するギリシャの自然と、
一体となっているのである。だからまた、自らも変化し、
変化し続けたのである。

その暮らしや考え方、感覚といったものも、
このギリシャの自然環境が、
彼らの精神を形づくったのである。
彼らの、その生活、生活の様式、
感情や情緒、感じ方もまたそうである。


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