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人間が生きてゆく上で、視覚情報というものは、どうしても必要な不可欠なものである。だがしかし、それでは、無意識の好みとか、好き嫌いの傾向とか、興味といったものはどうだろう?ふだん意識されることのない無意識の感覚である。しかし、無意識であっても、そうした感覚はたしかに働いているのである。そして、そうした感覚を無視しても、なお、残るものがある。 感覚の感覚に対する感じ方である。 視覚の視覚に対する感じ方である。 意識から分離独立した感覚が、 感覚自身に対して抱く感じ方である。 感覚は、感覚のことをどのように感じているのか、 ということである。 なにか意識されるワケとか理由があってそうなのではない。あるいはまた、そうと感じる何かの対象とか相手がいるというワケでもいないのに、視覚がそれ自体として感じる、ここちよく、おだやかで、優しげな雰囲気とでもいったものなのである。あるいは反対に、わけもなくイラついたり、嫌ったり、避けたりするのもそうである。 あるいはまた、本人自身が生まれ出てきた時から持っている、気質や気性、気分といったものもそうである。もっと言えば、本人の気まぐれや思い込み、発想の限界や傾向自体がそうなのである。それ以前のところで、なにかに支配され、制約され、方向づけられているのである。それが人間存在の前提としての風土なのである。人間が生きている自然環境と歴史的条件なのである。 |
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