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なぜならそれは、祖先のかつての記憶が実体化したものなのであり、祖先が生き行動した結果が肉体の感覚器官として結実し、保存されて来たものだからである。かつての祖先が目指したものが、今、目の前の現実のカタチとして、自分の肉体の感覚として保存され受け継がれているのである。 無視することも、逃げることもできない、それどころか、現に生きている自分の身体の一部分として、生きて機能しているのである。つまり、逃げることが出来ないのである。まさしく、これが自分自身のことなのであって、こうした自分の肉体でもって生きて行かなければならないのである。 自分の肉体にはじめから備わっている機能や役割り。そして、それを実際に動かしている肉体のカタチと、その仕組み。そしてそのシステムの生理的特徴といったもの。そしてまた、その時間的変化のあり様といったものは、自分自身のなかにあって、自分を動かし、自分を支配している生きた現実なのである。 このような現実をはなれて自分というのは存在せず、こうした生きた肉体の現実の中でのみ、自分自身というのが存在し続けることができるのである。あるいは同じことだが、それが一つの「種」として存続し続けることが出来たのである。いま自分が生きているという現実の世界は、そうした歴史の結果なのである。そしてまた自分自身の身体もまたそうなのである。 |
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