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7、楽しいこと。



例えばそれは、祭りの踊りなどがその典型である。あるいは、詩のないメロディー。NHKのラジオ体操などもそうだ。美しい風景の彩りを見ているときもそうである。

楽しく気持ちよく嬉しくなってくるのである。そして、それらすべてにおいて、なにかを意識したり考えながらしている、ということがないのである。なにも考えたり意図したりしないまま、
感覚がひとりでにやっていることなのである。だからこそまた、大いにたのしいのである。

踊りは、身体と耳と目と肌と筋肉が楽しいのであり、メロディーは、耳と心が楽しいのであり、色彩は、目が楽しいのである。つまり、なにも考えずに、なにも意識もされないというのが楽しいのである。感覚というのがそれだけで楽しいのである。意識とか思考にまで至らないというのが、たのしいのである。

それは純粋で、本能的で、衝動的なものである。と同時にそれは、何かを指向している。そして、そうした肉体の指向性といったものが、感覚が求めているものなのである。そして、この指向性と衝動といったものが、感覚の正体であり、実体であると言えないだろうか?

戻る。          続く。

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