index < 日誌 < v夢の中< 「夢」p4


 
4、相手。



それはいったい何に対する恐れなのか、あるいは心地よさなのか、その対象がはっきりせず、あいまいなままなのである。現実との接点がなく、現実からまったく切り離されているのである。夢特有の、何かの暗示とか予感とか誘いといったものがないのである。

夢の対象というか、それが導く目的やターゲットといったものが情緒の世界にはないのである。夢のなかの対象がはっきりしない、というのはこのことなのである。ここちよい花園や、恐れおののく谷底には、どこかへ導き、指し示すような、心の方向性、示標といったものが見あたらないのである。また、そうした衝動や感情がわき起こってくる余地がないのである。

このような対象、ないし示標といったものは、実は、自分自身の中にある心の動きなのであって、それが見えてこないのである。はっきりしないというのはこのことなのである。対象のなかに示標が見えてきて、はっきりしてくるというのは、自分で自分の心のなかを見ているのである。感情の対象や、衝動の相手を見ているのである。そしてまさに、そうしたことが、動物のキバや谷底、花園や気持ちよい雲の中には、無いのである。だからそれは、感情というよりも、情緒の世界なのである。

しかし、感情を表現するとなると、やはり、人間の姿と表情がもっともそれにふさわしく、それ以外を持って表現することはできない。感情は人間の表情でもって表現する以外にないのである。人間の表情には何かを指向する方向性のようなもの、衝動が情緒を突き破って、何かを求め、のぞみ、目指す姿を見ることが出来るのである。明白な目的と動機といったものがハッキリと見てとれるのである。そして実際こうしたことを、人間以外でもって表現することは不可能なのである。

それは、自分の相手を通して、自分の感情を見ているのである。そしてこの「相手」とは、自分の中に住む、もう一人の自分のことなのである。自分自身のことなのである。自分の中にある意識されざる潜在意識のことである。自分で自分の心のなかを、のぞき込んでいるのである。

戻る。             履歴へ

index < 日誌 < v夢の中< 「夢」p4