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3、気分。



これとくらべると、夢のなかに出てくる、動物のキバとか谷底、雲や花といったものは、感情の対象がはっきりしないのである。いったいなにを象徴し、なにを思いだし、何を言いあらわそうとしているのか、自分でもわからないのである。もともと、そうしたものがないのである。

それは象徴とか、それとは別の何かを暗示したものではないのである。それは理由も訳もなく、現実とは何の脈絡も関連もない、ただたんに、気持ちとか気分とか、苦しさとか心地よさを見ているにすぎないのである。そこから出ることも、越えることもないのである。感情ではなく、情緒や衝動の世界を見ているに過ぎないのである。

いったい何に対して抱いている感情なのかハッキリしないのである。感情の対象自体が曖昧なままなのである。あるいは、対象そのものがない。それは感情が感情に対して抱く感情、言い換えれば、感情というよりも「情緒」に近いものなのである。外の現実とは切断されたところで、感情が感情に対して何か意義申し立てしているのである。そうした閉じた自己完結の世界であって、情緒の世界に近いものである。

それは、それとは別の何かを象徴したり、暗示したり、示唆したりするものではないのである。むしろ、夢で見た情景そのものなのである。それは感覚そのものが、そしてその生理的状態そのものが、わけもなく苦しいとか、気持ちよいといった状態なのである。

心理的状態というよりも、生理的・感覚的状態なのである。そうした感覚が直接にじんで来て、あふれて、そしてイメージ化されたものが、谷底とか花園といった情緒の世界なのである。気持ちとか気分の世界なのであって、感情はほとんど表面に出てこないのである。

それでも、たしかにそれは感情と言えるものなのかも知れない。仮にそうだとしても、それは相手のいない感覚だけの感情である。だからそれは、直接的で同時的なその場限りの感情、恐れとか、ここちよさとか、気分とか、気持ちといった相手の存在しない感覚だけの直接的な感情、つまり、感情というよりも「情緒」とか「情感」に近いものである。感情というよりも、何かしらの衝動に近いものである。

戻る。             続く。

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