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こうしたことは現実によくあることで、ありのままに言うと、それがすべてであるといってよい。私たちが現実に見ている世界そのままである。そうやって現実の世界は成り立っていて、そうやって社会は動いている。なんだかんだといっても結局はコネと談合だけなのである。これが島国日本の真実の姿なのである。見えざる根本原理なのである。 人間は生きてゆかなければならず、そのためには社会に入ってゆかなければならず、入って行って自分の居場所と役割を得なければならない。そのためにはどんなことでもするし、しなければならず、そしてまた社会も自分自身も、それを正当化してくれるのである。そうやって始めて収入を得ることが出来るし、自分と家族を養って行けるのである。 なんだかんだ言ってもこれがすべてなのである。収入があってこそ、仕事があっておカネが入って来てこそ始めて生きて行けるし、人並みの生活ができるのである。 正しい考えや行為というのはこのことなのであり、これがまた、正義なのである。日本社会における正義とは、目上と目下の上下関係であり、そのためのシツケを意味している。 このような理性と論理の一貫性が、あくまでも、どこまでも、絶対的に自己を貫き通すのである。それがこの社会のキズナであり、倫理であり、絶対的で神聖不可侵のオキテ(戒律)なのであるそれはまた、東アジア儒教社会の特徴ともなっている。 個というのが存在せず、集団の中に理没し、道徳や正義といったもの、倫理やキズナ(絆)といったものが、外から人間を強制的に縛り続けるのである。身動き出来ないようにして、押し殺してゆくのである。個人の自立の余地はない。社会の原理としても、システムとしても、その必然性としても、成り立ち得ないのである。従ってまた、本来の意味での人権やプライバシー、人格の概念は存在しない。 |