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東アジアのアイデンティティ―は、ヨーロッパとは対照的である。有史以来、民族も国境もほとんど固定したままである。このような世界では、自己というのは同一であり続けるしかない。その原理も、根源も、自然環境もそうである。ということは、アイデンティティ―が意識されることがない。 その必要もない。発展ないし変化のキッカケとその必要が存在しないのである。または、それはあってはならないものである。それは永遠に変わらず、意識もされず、意識してもならない、また意識のしようのない、そうした世界である。そういして、ずっと、ずっと同じことがくり返される。そして、それを正当化し定め固定化したのが儒教思想である。 だから、アイデンティティ―としての、自己の一体性・連続性といったものも、歴史的・地理的概念であるといえる。それは、絶対的なものではなくて、時間的・空間的概念であって、思考の産物に過ぎないということである。そして、この思考というのが、人間だけが持つ特徴なのである。 つまり、人間の思考や意識、感覚自体がすでに、歴史的・地域的概念であり、そしてまた、時間的にも空間的にも制約され、方向づけられ、定められている。自然環境や、自分自身の肉体の生理作用に支配されているのである。もちろん、それを概念としてカタチ作ったのは、郷土の自然環境であり、自分自身の肉体の感覚なのである。 |