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感情と思考が区別されない。そこまで、届くことがないのである。だから、自分自身を客観的に見ることができないのである。自意識というのがきわめて希薄なのである。自分で自分を省(かえり)みるというのがほとんどないのである。 そして実は、こうした自己放棄の状態が、何らかの快感を与えている。相手というのが、そして、世の中のキズナというのが意識されず、自分というのが世界に対して閉じた無関心の状態にある。だから、自分は何をしても許されるし、なんでもできると思えてくる。責任というのがなくて、権利義務が自覚されない。 このように自分というのが、現実の世界と区別されることのない関係にあって、自分というのが見えず、自分と他人、そして自己と現実世界が区別されずにいる状態。 こうした自分と外の世界とのケジメのない世界。いいかえると、自己が自然の中に理没した状態。そうした世界では自分は意識されず、他人も外の自然も自分と対立するものとして現れてくることはない。いわば、覚(さ)めることのない、眠ったままの、夢の世界を生きているのである。 もしも精神がこのような自己というものを、意識しはじめたらどうなるのだろう? 仮にそれが意識され思考としてとらえられたとしても、そうだとしても、はたして自分自身は、それを現実のこととして受け入れることができるだろうか。精神はそれを持ちこたえることが出来るのだろうか。 |