index < 日誌 < ak春< 「続、春かすみ」p9/ |
自分というのが、自分のなかにあって、そこから自分の外へ出て行かなければならない。しかし、それが何で、いったいどこで、何をしようとしているのか、自分でもわからないのである。なぜなら、それはカラダが覚えていて、カラダの都合でやっていることであって、それが何かを意識してやっていることではないからである。 意識されることのないまま、カラダが自然にそうした方向性をとるのである。だから、それはまた、外の自然と一体になっている。外の自然というものを五感で、カラダ全体と感覚全体で感じていてそうなるのである。何かを感じるということが、意識とか思考で感じているのではなくて、感覚自体で、意識されることのないままで感じられていて、同時にカラダがそれに無意識に反応して従っているのである。 そうした意味でそれは、感覚的で、生理的で、情緒的ともいえる。雰囲気とか、空気とか、フィーリングとでもいったものである。そうした独特の空気、情緒とでもいったものが春にはある。春にしかないものである。 |