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3、見え方の理由。



そうしたことは、自分にとって見れば、見えて来なければならないし、見えるはずだし、見えていなければならない、実際に「有るはず」のものだからでる。しかし、「有るはず」とは予見なのであり、実際にはまだ見ていないのであり、つまり自分の偏見なのである。

自分というものの感じ方が作られた社会的な暗黙の合意や常識でもって、現実を見ているのである。あるいはまた、これを個人的に見れば、自分自身の限られた経験や記憶に基づく主観、つまり、個人的な思い込みと気まぐれの結果なのである。

こうしたことは多かれ少なかれ、見る側の想いとか感じ方といったものが、ものの見え方、考え方に大いに入り込んでくる。それと意識することなく、知らず知らずのうちに入っている。そうした意味で、「ぼやけて見える」というのも、主観的である。

そこには、レンズ(水晶体)のピント合わせと、その方向、そして有効視野の調整が、本人によって行われているからである。人間の感覚は、それを意識せずに行っている。肉体の生理作用として堆積されてきた、無意識の肉体の記憶が、それを自動化しているのである。

これが、ぼやけるという見え方の原因となっているのである。ピントに合わないもの、視野からズレているものは、ぼかして見えなくしているのである。あるいは、必要のないもの、自分とは関係のないものとして、初めから感覚が無視しているのである。


戻る。             続く。

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