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3、意思。



ニオイもそうだ。夏の、人間の食べものと排ガスの、あるいは冬の、無機質の固まって止まったような、停止したままの無機質のニオイだったのが、新芽や若葉の生命の誕生を予感させるようなニオイが大気にただよい始めている。それに、暖かい日差しと豊かな水分。そうしたことのすべてが自分の肌に直接、感じられるのである。それは生の予感であり、求めるものでもあり、そしてまた目指すところのものである。

そうしたことを、ディスプレイでもスピーカーでもなくて、自分の肌で、自分の感覚と自分の生きた肉体で直接に感じているのである。それは自分のものなのである。自分自身の感覚で感じるものなのであり、その現実のなかで自分が生きているのである。自分の肉体と自分の感じ方、そして自分の意思で感じて生きているのである。

たしかに4月の風景は、おだやかで優しげで暖かく見える。見た感じがたしかにそうなのだ。そしてまた、その内実もそうである。


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