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3、自意識の同一性。



カタチだけがあって中身が無い。たしかに見えるし、さわることもできるが、たしかな実体というか、意味というか、要するに「理由」がどこにも見あたらないのである。

現実のすべてが見せかけと外見だけの、空想で成り立っている世界のように思えてくるのである。何かもっとも大切なもの、自分にとって、また、人間にとって何よりも大切なことが見失われ、喪失し、忘れられ、消えている。そう思えてくるのである。

だから、とは言っても、それもこれも結局は、すべてが自分勝手な思い込みや気まぐれに過ぎないではないか。そうだとすると、そんなことはどうでもよいことで、これこそ、わけのわからない、私個人の自分勝手な思い込みの妄想ではないか。

しかし、たとえそうだとしても、確かに遠くに見える山々の姿、おぼろげにかすんで見える山々の輪郭といったものは、確かにボク自身の心の中を映し出しているように思えてくるのである。

それを求め、いざない、そしてそれへと向かわせるような、そうした情景なのである。それとは何か?忘れもの、失われたもの、消えていったもの。そうした記憶のカケラである。自分の中にある、自分自身の「理由」といったものである。自分はいったい誰なのか?自意識の同一性が問われている。


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